ハリソン物語

第1版 1950年・T.R. Harrison

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1945 年の夏のこと。私のもとに,Morris Fishbein から電話がかかってきた。Fishbein は,JAMA (Journal of the American Medical Association)の編集長だった人物で,引退後にDoubleday 社の科学顧問に就任していた。彼は言った。「あなたもご存知のとおり,米国内の内科学のテキストは,Saunders 社の『セシル内科学』がほぼ完全な独占状態を確立しています。Doubleday 社はフィラデルフィアのBlakiston 社を買収したばかりですが,新しいオーナーたちは,『セシル』に匹敵する内科学のテキストを出版したいと考えています。実は今,その本の編集主幹の候補として,あなたの名前があがっています。できればあなたにニューヨークまでおいでいただき,私やBlakiston 社の取締役のTed Phillips と話し合いをしていただきたいのですが,どうでしょう? もちろん,そのための費用はすべて当方が負担しますし,ちょっとした謝礼のほかに,ブロードウェイでいちばん人気のある舞台のチケットも2種類ばかり手配しておくつもりです」。

私は彼に,『セシル』はもはや時代遅れで,当時,一流の医学校で教えられていたような内科学に対応したテキストはどこにもないと思っていることを打ち明けた。私はちょうど,新しい内科学のテキストの構成について,ある明確なアイディアを持っていた。問題に対する,より現代的なアプローチを提案することもできそうだった。問題は私に,そうした本をみずから編集したいという希望も,そのための時間もないことだった。

それを聞いても,Fishbein はひきさがらなかった。「ニューヨークでは,新しいテキストについてのアイディアを率直に語っていただき,編者に適した人物の名前をあげていただければ十分です。とりあえず,お話だけさせてください。気が乗らなければ参画を断ってくださってかまいません」。

そこで私は招待を受け入れた。私は夕方にニューヨークに到着して劇場に行き,翌日はFishbein とPhillips とともに朝食と昼食をとり,午後のマチネーを見たら,夕方の飛行機に乗り,学部長を務めているサウスウェスタン医学校のあるダラスに帰ることに決まった※1。

※1 訳注:サウスウェスタン医学校は第二次世界大戦中の1943 年に設立された医学校で,軍医を育成するために,3 年間で修了できる特別な教育プログラムを持っていた。医学校は1949 年にテキサス大学に吸収され,現在はテキサス大学ダラス・サウスウェスタン医療センターの一部になっている。