ハリソン物語

第9版 1980年・K.J. Isselbacher

1/2

第9 版の仕事にとりかかる前に,われわれはGeorge Thorn の後任となるべき2 人の候補に会った。求めていたのは,内分泌と代謝学の第一人者であり,編者としても有能な人物だった。Jean D.Wilson がまさにそうした人物であることは,最初の話し合いで明らかになった。もっとも,この時点で分かったのは,彼が科学者として優れているということだけで,人間性についてはよく理解していなかった。けれども,彼がすばらしい機知と百科事典並の知識を備えていることがすぐに明らかになり,われわれは改めて彼を仲間に迎えることができた幸運を実感することになった。

1977 年7 月には,バーモント州ウッドストックのウッドストック・インで1 週間の「長い打ち合わせ」が開かれ,第9 版の目次が決められた。これに参加したのは,私,Adams,Braunwald,Petersdorfの4 人の古参の編者と,新たに加わったJeanWilson,それに,Rhoda Isselbacher と2 人の子供たち,Marissa Adams,McGraw-Hill 社のRichard Laufer とJoe Brehm だった。われわれは毎日,朝から午後1 時まで仕事をし,それから休憩と遊びの時間になった(Adams,Isselbacher,Rich Laufer はテニス,Petersdorf は水泳,Braunwald は電話,Wilson はサイクリングを楽しんだ)。4 時からはふたたび仕事に戻り,それが終わるとカクテルと食事の時間になって,ウッドストック周辺にある良いレストランをいくつか試した。

第9 版の準備のための次の打ち合わせは,1978 年4 月にボストンのシェラトンホテルで開かれた。McGraw-Hill 社の編集長のDereck Jeffers は,このとき初めて曲者揃いの「ハリソン組」に紹介された。ちょうどその日はボストンマラソンの開催日だったので,われわれのマラソン・セッションを記念してDereck Jeffers の部屋でお祭り騒ぎをした。編集者のRobyn Stack とPatrick Cliffordが登場したのもそのときだったが,2 人の出番は短く,楽しい思い出だけが残ることになる。Patrick は,編集チームをニューヨークの「リュテス」に連れて行ってくれた。それは,すばらしいグルメ体験だったが,そのときの費用が予算オーバーだったのだろうか,改めてお礼も言えないうちに,彼とRobyn はMcGraw-Hill社からC.V. Mosby 社に移ってしまった。