ハリソン物語

第10版 1983年・R.G. Petersdorf

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第10 版は,編集主幹である私がボストンで編集作業を開始し,サンディエゴで終えたという点で変則的だった。1972 年Braunwald を除けば,編集作業中に活動拠点を変えた編者はいなかったはずである。私はそのため,ボストンではCindy Reed,ラホーヤではJanice Stearns の助けを借りなければならなかった。Cindy は,以前からシアトルで私の仕事を手伝ってくれていたが,ブリガムハウススタッフのメンバーになった夫とともにボストンに来て,一緒に仕事をしてくれていた。そこで,私がサンディエゴに移る際に,6 週間だけ一緒に来てもらい,Janice に仕事を教えてもらった。これにより,活動拠点の移動にもかかわらず,第10 版の準備はスムーズに進んだ。

第10 版は,Martin にとっては最初の,Adams にとっては最後の版になった。Adams は,本書の歴史の中で最も長い期間,編者を務めた人物である。第10 版の目次を準備するために,われわれはふたたび,バーモント州ウッドストックのウッドストック・インに集まった。1980 年の7 月のことだった。その1 週間,われわれは例によって午前中と夕方に仕事をし,午後は遊んだり休憩したりして過ごした。夕食は,ウッドストック・インでとることもあったし,近くのレストランに行くこともあった。ウッドストック・イン,新鮮な空気,快適な環境,充実したレクリエーション施設が,この場所を数年来で最高の打ち合わせ場所にしていた。この打ち合わせには,すべての編者とその妻たち(全員が1 週間まるまる滞在できたわけではなかったが),および,McGraw-Hill 社のRichard Laufer とDereck Jeffers が参加した。

われわれには,このほかに『Update』の仕事もあった。『Update』は,第9 版から第10 版までの間に4 冊,第10 版から第11 版までの間に3 冊出版されることになる。その目的は,母体である『ハリソン内科学』が執筆された時点にはなかった新しい情報を提供し,スペースの都合で省略せざるをえなかった話題にまで内容を拡張することにあった。われわれの目には,『Update』は当初の目的をだいたい果たしているように見えた。素材は新鮮で,かなり詳細なものだった。多数の執筆者と複数の編者が参加したことを思えば,『Update』は内容的には満足のいくものに仕上がっていた。しかしながら,購買者を引きつける力(つまり売り上げ)は弱かった。最初に出た『Update I』の売り上げはまずまずだったが,以後は下り坂だった。質の高さという点から見れば,『Update』はもっと売れてもおかしくない本だった。それなのになぜ売れなかったのか? それは主として経済的な理由であったと思われる。本体のほぼ40%という価格は,あまりにも高かったのだろう。