ハリソン物語

第11版 1987年・E. Braunwald

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Isselbacher,Petersdorf,Braunwald は,第6 版から編集チームに参加した。第9 版はIsselbacher,第10 版はPetersdorf が編集主幹になったので,第11 版では私が編集主幹になることになった。編集主幹とは,他の編者とたいして変わらない負担で,大きな名誉が得られる地位のことである。第11 版の計画は,第10 版発行の1 年ほど前からはじまった。6 人目の編者を誰にするかをめぐり,編集チームは何度も会合を開き,頻繁に電話連絡をとり合った。Wintrobe の引退により,第8 版と第9 版には編者が5 人ずつしかいなかったうえ,第10 版から編集チームに参加したMartin は神経学の専門家だったからである。われわれは,めざましい進歩を遂げている細胞および分子生物学と臨床医学とを結びつけるような分野から編者を選ぶ必要性を痛感していた。当初,注目は血液学と腫瘍学に集まっていて,この分野を代表する数人が候補にあがっていたが,適任と思える人物はいなかった。そこでチームが臨床免疫学の分野に目を向けると,Anthony Fauci が目にとまった。彼こそは自分たちが必要としている人物であると確信したわれわれは,全員一致で彼をチームに招き入れることに決めた。この決定は,チームの最高の判断の1 つだったと思っている。

1970 年代から1980 年代にかけて新しい編者を選ぶ際に主として考慮されたのは学識だった。そのほかには,他の編者と重ならない専門を持っていること,内科学とその科学的基礎に深い関心と理解を持っていること,分かりやすく簡潔な文章を書けること,および,他の編者や出版者,執筆者たちと積極的に交際できることなどが考慮された。第2 に,編者が所属する研究機関も考慮された(ひょっとすると,本人の能力と同じくらい重視されていたかもしれない)。優秀な研究者が大勢集まる大規模な機関に所属している編者は,さまざまな分野の専門家に執筆や批評を依頼できるという点で好都合だったからである(NIH に所属していたFauciは,その点でも理想的だった)。最後に,それぞれの編者の引退時期をずらすために,年齢も考慮された。定期的に新しい編者を採用して新しい発想を入れ,『ハリソン』が知的な柔軟性を失わないようにすることは重要だが,編者の引退時期をずらしてチームの目標や水準,姿勢に連続性を持たせることもまた重要であるからだ。