ハリソン物語

Resnikの回想 William Resnik

1/1

私はたった今,『ハリソン内科学』の誕生にまつわるHarrison の回想を読み終わったところである。回想記には私を編者に選んだ事情についても書かれているが,編集チームへの参加を最初に打診されたときには,私は大いにためらったことを覚えている。学者ではない自分のような人間が加わることで,本の価値を下げてしまうことを不安に思ったからである。

『ハリソン内科学』の成功をもたらした要素はいろいろ考えられるが,なかでも決定的な役割を果たし,その後の発展を可能にしたのは,本のコンセプトであった。1946 年から47 年当時,CecilとLoeb のテキストを脅かすような内科学のテキストは存在しなかった。彼らのテキストは,何年にもわたり,かつてのOsler のテキストと同じ地位を占めていたのだが,執筆陣の優秀さ,内容の質の高さ,編者による行き届いた監修を考えれば当然のことだった。これに対して,『ハリソン内科学』初版には,多くの欠点があった。それにもかかわらず一応の成功をおさめることができたのは,症状と疾患の機序,および,病態生理学と臨床医学との関連についての議論の新しさのためだったと言わざるをえない。

もう1 つの重要な要素は,Blakiston 社とMcGraw-Hill 社とともに仕事ができた幸運である。Doubleday 社との短い付き合いが,このことのありがたさを教えてくれた。McGraw-Hill 社がわれわれを救出しに来てくれていなかったら,われわれはすべての希望を失い,『ハリソン内科学』は消えてしまっていただろう。

本人は謙遜するが,Harrison が果たした役割は非常に大きかった。まぎれもないカリスマ性を持つ彼のもとに集まったメンバーが,お互いに対等な関係でいられたのは,彼の人徳によるところが大きい。私は,編集チームの1 人ひとりがかけがえのない貢献をしたと思っているが,その点については他の編者が証言してくれるだろう。ただ1 つ,長年におよぶ会合のたびに,ほとんど奇蹟的なまでの調和を私が感じていたことを,ここに明記しておきたい。

最後に,Harrison と私の後任の編者を選ぶ際に,編集チームはすばらしい判断をした。Braunwald とIsselbacher の名を告げる手紙を受け取ったとき,私は,

誰がために鐘は鳴るやと汝が尋ねる必要はない

それは汝のために鳴っているのだ

というジョン・ダンの哀歌の1 節を思い出さずにはいられなかった。

予言的なこの言葉は,アイシス川※1やイーストリバー※2,スクールキル川※3の岸辺でも聞かれるだろう。

※1 訳注:オックスフォード大学でのテムズ川の呼び名
※2 訳注:マンハッタン島とロングアイランド島を結ぶ水路
※3訳注:ペンシルベニア州の中をフィラデルフィアまで流れる川