序文

監修者序文

小学校や中学校の教科書は文部科学省による検定により,“教科書”が決められるが,医学の教科書にはこのような機構は存在しない。皆が教科書として暗黙のうちに認めたものが教科書となる。偏らない公平な見地から,その領域を全般的にカバーし,幅広い領域にわたった教科書としてふさわしい人たちによる執筆と優れた内容などがその条件であろうか。

Miller's Anesthesiaは,麻酔および麻酔関連領域全般を網羅しており,著者もその時代の指導者たる人たちを幅広く取り入れており,そして内容が優れている点で誰もが麻酔科学の教科書として認めるところである。この本を翻訳するとの話が持ち込まれたとき,専門医試験のスタンダードである本を翻訳することに賛成はしたものの,膨大なボリュームのあるこの本を訳することに躊躇せざるを得なかった。しかし,内科学の“ハリソン”を訳した経験と実績を訴えられ,引き受けることとなった。

18名の監訳者と総勢103名の翻訳者にお願いすることとなった。訳者は正確を期すと同時に期限内に完成することを目標に掲げ,教授,助教授,講師クラスを中心にお願いした。全89章2,472ページにわたる分厚い本を,皆さんの努力の甲斐あって,構想から2年ちょうどの短期間で仕上げることができた。この場を借りて諸先生方並びに編集者の方々に御礼申し上げる。

日頃から私は学生に,麻酔に必要な知識は呼吸・循環を中心とした生理学,解剖学,薬理学の基礎医学と,内科診断学,そして内科学,小児科学に,外科系医学であり,これらが理解できていないと麻酔は理解できないと話している。麻酔の教科書としてはこれらの知識が盛られていることが必要で,Miller's Anesthesiaにはこれらが麻酔と関連して,わかりやすく書かれている。


われわれが日常臨床麻酔で直接使用しているのは,麻酔科学の中でも一部にしかすぎない。自分の専門分野あるいは研修中であれば直接かかわっていることにのみ興味の視点を置いている。私が現在の麻酔科専門医,かつての指導医を受験した際に,麻酔科学の本を最初から最後まで読んだ記憶がある。麻酔の歴史からはじまって,集中治療やペインクリニック・緩和医療まで読み通すことで,はじめて麻酔科学の全貌を知ることができた。私が思っていたものよりも麻酔科学と麻酔にかかわる領域の幅の広いことに驚き,目の前の展望が開け,まだまだ領域が広がっていく可能性を感じることができた。1つの麻酔科学の教科書を読み通すチャンスは,このときを除いてはなかったように思う。現在,麻酔科専門医の試験は,麻酔の領域が広がるのに伴って分野も広がっており,それぞれの分野からだされている。麻酔科専門医の試験のスタンダードは,Miller's Anesthesiaに準ずることになっているが,この広がりつつある分野全体にわたって原著を英文で読み通すのは至難の業である。本書はそのための救いの女神となるかもしれない。

1846年にマサチューセッツ総合病院でエーテルによる麻酔の公開実験が行われたが,1770年代初頭の酸素や笑気の発見,血圧,脈拍数などの生理機能の理解や測定法の開発がそれまでに行われていたことが,麻酔出現の土台となったと考える。その後の麻酔科学の歴史を振り返ると,麻酔薬や循環作動薬など麻酔関連薬物の開発と,心電図をはじめとしたモニターの進歩,さらには麻酔器をはじめとする麻酔に使用される器具の発展に支えられてきた。Dr. Millerは,第1版が出版された1981年以来,第6版が出版されるまでの間に麻酔は驚くほどの進歩を遂げたと日本語版“Anesthesia”の序文で述べている。

日本の近代麻酔史は,1950年にDr. Sacradにより行われた日米連合医学教育者協議会による麻酔に関する講演会がはじまりといえる。翌1951年に開かれた第51回外科学会で会長の前田和三郎先生が「麻酔学の教育及び研究は緊急事である」と講演され,1954年に外科学会の指導のもと日本麻酔学会が設立された。その後の50年間の麻酔の進歩は,日本においても目を見張るものがある。

現在では,心電図に自動血圧計,パルスオキシメータ,ときにBISや各種心拍出量計など,非侵襲的あるいは低侵襲のモニターが日常的に利用できる時代になり,麻酔の安全性と質の向上に寄与している。しかし,私が麻酔科に入った1970年代前半の麻酔中のモニターといえば水銀柱の血圧計のみで,5分ごとに手動によりカフでマンシェットを膨らませ聴診器で血圧を測定し,脈拍は常に触れていた浅側頭動脈の拍動の数を数えていた。人工呼吸器もないので,血圧を測るときはバッグを押す手を一時中断して測っていた。心電計は開心術用のポリグラフの他に3台ほどの心電計があり,循環器に問題があると装着していた。当時の大学病院中央手術室は十数室であったので,当然取り合いの状況であった。また,術中に体温を測る手段は少ないので,患者に触れて,患者の温かみを感じ取っていた。その後心電計の普及が急速に進み,術中の循環管理に大きく貢献したが,それまで知らなかった不整脈の発生が意外と多いのに驚いた記憶がある。


麻酔薬では,エーテルからはじまった吸入麻酔薬は,現在使用されているデスフルランやセボフルランの開発へと繋がり,静脈麻酔薬ではチオペンタールから始まり,プロポフォール,レミフェンタニルに至るまで,麻酔の安全と質の向上に大いに貢献してきている。麻酔器は多くの失敗や犠牲となられた患者さんの教訓を基にして地道な努力がなされ,さまざまな改善が加えられて,安全かつ使いやすい麻酔器が工夫されてきた。挿管困難も麻酔科医にとって古くて新しい課題で,まだ十分には答えきれていないが,いろいろな器具が開発されて,少しずつではあるが前進している。

さらに近年の心エコー法の普及により,血圧や心電図により心臓の働きを想像しての循環管理から,循環動態の変化を目でみながら,その原因がどこにあるのかを区別して循環管理をすることが求められてきている。中心静脈圧の上昇は,輸液により循環血液量が足りたのか,足りていないが心臓の拡張性低下のため少量の輸液で上昇したのかなど,循環血液量と圧と壁のコンプライアンスを区別して評価し,麻酔薬や循環作動薬の作用を確認しながら循環管理を行うことが求められてきている。

一方で,このように新しい技術の開発や進歩は,ときに患者に触れるチャンスを減らし,モニターをみて患者を診ることを忘れさせてしまう。最近は遠隔診断やロボットによる遠隔手術も行われるが,医師が患者のそばから離れていっていることを意味する。逆に麻酔科医は,術前診察,術後外来,日帰り手術での帰宅後の対応など,患者にもっと近づくべきであると考える。麻酔には,遠隔麻酔,ロボット麻酔はないと考える。患者さんのそばにいて,患者さんの温かさを感じることは,ある意味では麻酔の本質でもある。

本書は,Dr. Millerの麻酔に対する姿勢を垣間みることができる。本書に盛り込まれた多くの基礎知識,新しい技術,将来への展望に加えて,Dr. Millerの意図する“麻酔の心”も学び取って欲しいと考える。

2007年3月
武田純三

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