ハリソン物語

第8版 1977年・G.W. Thorn

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われわれは,1975 年にマルティニク島※1に集まった。現地の黒人が話す訛ったフランス語が,風光明媚なこの土地をいっそう心地よく,興味深いものにしていたが,この島の北部は,数年前の激しい地震による壊滅的な打撃から回復できずにいた。

この打ち合わせの最重要問題は,出版のスケジュールだった。1950 年から74 年にかけて,『ハリソン内科学』は4 年ごとに新しい版を出してきたが,競争相手との兼ね合いでこのタイミングでは具合が悪くなってきた。そこで,スケジュールを変更して,第7 版の出版から3 年後の1977 年に第8 版を出してはどうかという提案が行われた。このときまで全員が4 年ペースを前提としてのんびり構えていたので,提案は狼狽と怒りをもって迎えられた。当初は誰もがそんなことは不可能だと思っていたが,それから数日間,すばらしい天気に恵まれて,テニスと水泳と地酒を大いに楽しんでいるうちに,いつの間にか「やってみるか」という雰囲気になっていた。

1 年早く第8 版を出版するという試みは,あらゆる点でうまく行ったが,編集チームを引退したばかりのMax Wintrobe をかんかんに怒らせてしまった。彼は,改訂が早くなることで自分の利益が減ると思ったのである。けれども彼は,10 年間にわたって印税の割り当ての半分を受け取ることになっていて,われわれの計算では,彼の利益は実質的には増えるはずだった。このことを彼に説明すると,反対を取り下げて,心から協力してくれるようになった。

この第8 版で「視床下部と放出ホルモン」の章を執筆したJoe Martin は,後にハーバード大学でのAdams の地位を受け継ぎ,やがて,神経学分野の編者としてわれわれのチームに加わることになる。

また,第8 版には,「視床下部」のほかにも,「心エコー検査」「気管支内視鏡」「コンピュータ断層撮影(CT)」「性カウンセリング」などの新しい重要な話題や,加齢・変性・老化について論じる章も加わった。

※1 訳注:西インド諸島東部の島で,フランスの統治領