ハリソン物語

第10版 1983年・R.G. Petersdorf

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編者だった私は,各『Update』のために3 本から5 本ずつ原稿を執筆し,がんを特集した『Update』では,その全体を執筆した。こうした仕事は,母体である『ハリソン内科学』の仕事と並行して進めなければならなかったが,負担の大きさに対する見返りはあまりにも少なかった。さらに,『Update』に注いだ時間は,本体にこそかけるべきだったのではないかという反省もあった。そうしたわけで,『Update』は,早すぎる死と惜しまれながら,ひっそりと消えていった。

『ハリソン内科学』第10 版のための「長い打ち合わせ」は,1982年4 月にギリシャのアスティール・パラスで開かれた。アスティール・パラスは,アテネから数マイルのところに位置する,エーゲ海に面したホテルだった。ビーチは美しく,気候もすばらしかった。ホテルは,豪華さの点ではB マイナスだったが,仲間と過ごす時間はこの上なく愉快で,専門家のためにテーマ別の目次をつけることなどが決まった。ただ1 つ残念だったのは,観光をする時間があまりなかったことである。Wilson のように,打ち合わせの前後にギリシャで遊べるように予定を調整しておけばよかったのだが,現地に来てしまった後では,予定を変えることはできなかった。

打ち合わせには,第9 版から一緒に仕事をしてきたRichard Lauferと,その妻のCarol も参加した。魅力的な彼らとともに過ごすギリシャの日々は楽しかったが,一緒に仕事ができたのは,このときが最後だった。Dereck Jeffers は「本部の方のごたごた」のためにギリシャに来ることができず,第10 版の出版を待たずにMcGraw-Hill社を去った。Jeffers の仕事を引き継いだBob McGraw は,出版時期を数ヶ月も前倒しすることに成功した。

第10 版の準備作業の間,われわれは,血液学と腫瘍学の専門家が編集チームに必要だという認識で合意に達した。そして多くの時間を費やして候補者を選定し,本書の血液学・腫瘍学分野について彼らに批評してもらい,その批評にもとづいて新しい編者を決めようとしたのだが,どうしても意見がまとまらなかった。後に,第11 版の準備作業がはじまってから,ようやくTony Fauci に参加してもらうという名案がひらめいた。なんという幸運!