ハリソン物語

第11版 1987年・E. Braunwald

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第10 版の出版の直前にDereck Jeffers はMcGraw-Hill 社を去り,ライバルのW.B. Saunders 社に移っていたが,幸い,第11 版の準備に間に合うようにMcGraw-Hill 社と「ハリソン組」のもとに戻ってきてくれた。彼を助けたのは,2 人の有能な制作編集者だった。最初の1 年をDonna McIvor,残りのほとんどをEileen Scott が担当したが,特にEileen は,困難な時期をよくコントロールしてくれ,優れた本を完成させるうえで多大な貢献をした。

第11 版の目次を決定するための「長い打ち合わせ」は1984 年6 月にジョージア州シーアイランドで行われ,Fauci が初めてこれに参加した。McGraw-Hill 社のDonna McIvor は,非常によくやってくれていた。打ち合わせは生産的で,活発な議論が交わされたが,その雰囲気はかつての「長い打ち合わせ」とはだいぶ違っていた。時の流れが,ついに編集チームの顔ぶれを完全に入れ替えてしまったからである。Adams の引退により初期の編者は誰もいなくなり,1960 年代後半に「若手」として参加したIsselbacher,Petersdorf,Braunwald が,今や「古参」になっていた。

長時間にわたる議論の末に,臨床判断分析から,遺伝学と分子生物学の飛躍的な進歩が臨床医学に及ぼす影響まで,多くの新しい話題が加わることになった。第10 版ではAdams と責任を分担して神経学分野を担当し,今回はこれを1 人で引き受けることになったMartin は,その大役を見事に果たした。Fauci が編集チームに加入したことで,免疫疾患についてのまったく新しい章を加え,リウマチや結合組織病の章を大幅に改訂することもできた。このチームには腫瘍学の専門家はいなかったが,急激に変化しつつあるこの分野も大幅に改訂した。その結果,本の基本的な構成にこそ変わりはなかったものの,新しい執筆者の人数,追加あるいは削除した章の数は,第6 版以降で最大になった。