ハリソン物語

第2版 1954年・T.R. Harrison

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Blakiston 社がニューヨークに移転し,社長のTed Phillips が辞職するという知らせは,編集チームをひどく落胆させた。彼は常に,本の知的な部分に関するわれわれの権利を尊重しながら,構成,執筆者,文体などについて価値ある提案をしてくれた。彼のもてなしはわれわれを心から楽しませ,誰もが彼を仕事をはなれた友人とみなしていた。編集チームは,Phillips が抜けたことで,出版社との親密な関係が損なわれてしまうのではないかと心配した。悪い予感はやがて的中することになるのだが,その前に第2 版の内容に関わるお話をしておこう。

初版から神経学を扱うことをぎりぎりになって決定し,大失敗をした編集チームは,第2 版からRaymond D. Adams を神経学分野の「編集顧問」に招くことにした。チームへの正式な参加を依頼しなかったのは,神経学者は内科学全般にわたる知識を持っていないことが多く,本全体の批評をしたり,編集作業に携わったりするには向いていないと考えたからだった。しかし,われわれはすぐに,自分たちの間違いに気がついた。Adams は,神経学の権威であっただけでなく,内科学全般に対する広い関心と深い知識を備えていたのである。そこでわれわれは,正式な編者としてチームに加わってくれるよう,彼に頼むことにした。その判断が正しかったことは,彼が執筆した章を読んだときに明らかになった。神経疾患に関する彼の章は非常に優れていたが,神経学的機能障害の症候についての章は,さらに優れていたのである。Adamsの神経学分野は,非常に画期的だった。彼は,精神分析寄りだった当時のアメリカ精神医学界の風潮に逆らって,他の疾患と同様に,疾患の機序や病態という枠組みの中で精神疾患を論じ,生理学,生化学,心理学用語を用いてその説明をしたのである。※1

編集方針も固まってきた。初版は,短い「患者へのアプローチ」からはじまり,24 章からなる「疾患の主要な症候」へと続いていたが,第2 版では「アプローチ」の章を拡張して,患者へのアプローチの章,患者と環境についての章,および,患者と医師についての章に分けることにした。こうした章の中心テーマは,もちろん,患者を1 人の人間として扱うことにあった。さらに,内科疾患に対する生物物理学的アプローチも導入して,微量元素が病態に及ぼす影響や,各種の生物学的考察,患者のケアについての章なども追加した。このときに加えた章の中には,その必要性をめぐって,後の版で大きな問題になったものもあった。

※1 訳注:この点についてのAdams の信念については,「Adams の回想」(第II部 もと編者たちの回想)を参照されたい。