ハリソン物語

Adamsの回想 Raymond Adams

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以後の版では,Petersdorf,Braunwald,Isselbacher らの新しい編者が自分たちの分野に多くのスペースを要求するようになり,出版社は出版社で本の分量が多くなりすぎることを嫌った。彼らはそこで,神経学と精神医学のスペースを削減するように,私に迫ってきた。私の文体は冗長で,くだけた調子だったので,彼らの集中攻撃にあってしまったのだ。Harrison などは,本のタイトルを『神経学の詳細と内科学原理の概説』にしようと冗談を言う始末だった。結局,私の分野のページ数は減らさざるをえなかったが,全体的な枠組みが正しいことは誰もが認めていたようで,11 版でも基本的には変わっていない。

第2 版のために執筆した原稿の量の多さと,もしかするとその質が認められたことにより,私は第2 版から正式な編者に選ばれた。

私にとっての最初の「長い打ち合わせ」は,1953 年にセントクロイ島のカールトン荘で開かれたもので,ここで初めて他の編者と親交を深めることができた。医学的概念や他の編者が執筆した論文について思ったことを何でも言えて,進行を止めても嫌な顔をされず,個人攻撃に走ることのない議論に参加したのは,そのときが初めてだった。最も激しく議論していたのはWintrobe とHarrison で,2 人はそれぞれユタ大学とアラバマ大学の同僚が執筆した章を一生懸命擁護していた。Harrison がいつにも増して雄弁で面白くなるのは,数杯のオールド・グランダッド※1をひっかけてご機嫌になっているときで,なんとしても自説を通そうとして机の上に立ちあがると,背の低さがいっそう目立った。Resnik は都会的な開業医で,わずか数語の鋭い言葉で2 人の教授を現実に引き戻すことができた。Thorn は1 つの考え方に固執することがなく,編者どうしの意見の食い違いから論争がはじまると,まったく新しいアイディアを持ち出してきてその場をおさめ,温厚なBeeson が彼を支持した。われわれは,午前中は考え方や執筆スタイルをめぐって小競り合いを繰り返していたが,午後から夕方にかけてはともにテニスやゴルフ,水泳,夕食を楽しんだ。彼らが仕事時間中に示す集中力と,『ハリソン内科学』の未来を想像する能力の豊かさは,とりわけ印象深かった。

※1 訳注:米国のバーボンウイスキー